遠くの街へ行き来して思ったこと。
最近よく遠くの街へ行ったり来たりしているので、ちょっと思ったことを。
突然ですが、私は田舎の生まれです。実家があるのは山の上の集落で、うわさ話があっという間に共有されるような、結構閉鎖的なコミュニティの中にあります。スーパーマーケットや市街地、駅へ行くにも、少なくとも500mほど長い坂を登るか下りるかする必要が。娯楽施設も、山を降りて少ししたところにあるひなびたボウリング場とゲームセンターぐらいしかないような街でした*1。
そういう中にずっと身を置いていたら、おそらく
ステルスでキモノプリンセスやってる流石 twitter.com/kyubuns/status…
— きゅぶんずさん (@kyubuns) 2012年8月25日
こんなことはしていなかったはずです。
受け入れられなかったら去るしかない田舎、受け入れられる人を探せる都会
閉鎖的な空気がある田舎では、人が少ない分、どうしても誰かが多数派の価値観から大きく外れてしまうと、お互いいい気分になりません。少数派が自由になにもできないのはもちろんのこと、仲間がいないという孤独感、受け入れてもらえないという辛さを一身にうけます。また、多数派にとっても、その少数派が目に入ったゴミのような感じに見えてしまうことでしょう。結局、少数派の人はバイタリティがあればそのコミュニティを振りきって楽園を探しに行くか、なければ我慢して迎合するかしかなくなります。
それに引き換え、たくさんの人を受け入れられる街は、その人が持っている価値観を拒むことはそうそうありません。価値観を共にする人の少なさに応じてコストはかかると思いますが、同志が見つかることは田舎よりも多いと思います。誰かが否定したとしても、他の誰かが受け入れてくれる。その「誰か」を探せばいい。沢山の人がいるんだから、きっと何処かにいるはず。そんな希望が持てると思うんです。実際、おきがえ|音ゲー沼の住人はすぐに見つかりました。もちろん、あまりにも尖り過ぎているとか、犯罪じみているとかしたら都会でも難儀すると思いますが…
ネットがあっても距離感は埋められない
何度か同じ街へ旅行に行くと、旅先に知り合いが何人もできあがります。よく会うはずのクラスメイトはなかなか顔を覚えられないのに、なぜか彼らは声や顔をよく覚えてるんですよね。不思議なものです。私の場合、だいたい彼らはTwitterからお知り合いになり、実際に会うというながれがよくあります。というわけで、インターネット上でのコミュニケーションを少なからずとっているのですが、それでも物理的な距離感はどうしても感じてしまいます。ことTwitterは「ごはんたべた」などの生活感あふれる投稿が多いので、地域限定イベントなんかで盛り上がっているとものすごい疎外感に襲われます。こればかりはしかたありません。
だからできるだけ。
だからなのですが、そういう機会だと普段よりよくしゃべる私です。コミュ障発動するときもたまにありますが字面だけでは感じ取れない空気というのはやっぱりあるものです。そういうものにすこしでも触れていたいと何処かで思っているのかもしれませんね。
何処かで見たことあるようなネタですね
都会とマイナーなコミュニティについて - 脱社畜ブログ
こちらのネタ出しも含めれば2時間ほどはかけて書かれたであろう記事を10分ほど読み、私なりのフレーバーを足しながら応えるように1時間ほどで書いた記事です。田舎生まれで、異性装とかいう、3次元の世界では永遠にニッチであることを運命づけられている*2コミュニティに身を置くものとして、ちょっとアンサーしてみたかったのです。